「飛ぶ教室」オンライン講師けんです。
今回は国語・現代文の成績を上げるために必要と言われる「論理的思考力」について、
そもそも何なのか&どうすれば身につくのか考察してみます。
目次
論理的思考力とは?
目に見えない謎の力なのか
この記事を書くきっかけは、現在教えているとある中学生の保護者様からのご要望でした。
「うちの子は論理的思考力が足りないので、伸ばしてください!」
確かに、このようにお子様のことを心配されている保護者の方は少なくないことでしょう。
では、「『論理的思考力』とはどのように定義されていますか?」と聞かれ、明確に解答できる保護者の方はいったいどれくらいいらっしゃるのでしょうか(なお勿論、私はそのような不躾な質問はしておりません。曖昧なニーズをいかに汲み取るか、その 「おもんばかり力」 も「論理的思考力」に並んで重要なスキルであることを理解しております。「わかりました!」と元気よくお返事し、自分の仕事を淡々と行うまでです。)
つまり 「論理的思考力」 とは、それが何なのか意識せずとも成熟した人間が自然と身につけていて、他者がそれを持ち合わせていないことまで 「直感的」に把握できてしまう、そのようなものなのかもしれません。
そのような力が一体何なのか。古代より人類はその目に見えない謎の力について考え、言語化し、さらに発展させ、例えば 「形式論理学」 や 「数学」 として受け継いできた訳です。「三段論法(AならばB 、かつBならばCのとき、A ならばC)」や「四則演算」などは、その遺産のうちもっともありふれていて役にたつものでしょう。
「……あれ?「国語」は関係ないのでは?」
ある意味ではその通りです。確かに必要に応じて「三段論法」や「対偶」についての知識を教えることはあるものの、それは国語の授業の中ではごく一部です。より高度な「論理」を学びたいのであれば、数学教室やプログラミング教室に通うことを選ぶ方が合理的でしょう。「うちのコが条件分岐をよく分かってなくて〜」と言って国語教室に通わせる保護者の方はほとんどいないでしょうし、いるとすれば「非論理的」に違いありませんね。
さて、国語の勉強において重要なのは、「ゆえに(順接)」「しかし(逆説)」「たとえば(例示)」「なぜならば(根拠)」「ところで(切り替え)」「ならば(仮定)」など、文と文をつなぐより簡単で基本的な論理を形作る 「接続詞」 に関する理解なのです。
ところがこれらは、一般的な中学生以上の少年少女の方々であれば意識的ではないにしろ日常的に運用しているものではないでしょうか。より口語的に「だから」「でも」「だって」などと言い換えたり、寧ろいわなくても明らかな場合は「接続詞の省略」すら行ってしまう、接続詞のエキスパートが大半です。
ただ、「『だから』とはどういう意味か」と聞かれた場合、返事に困ってしまうだけで、その使い方を「示す」ことはほとんどの人ができますし、そもそもそのような質問は国語のテストでも登場しません。
では一体なぜ、少なくない方が「論理的思考力」というよく分からないもの(あるいは、分かりきっているもの)を求めて、数学でもプログラミングでもなく「国語」を学ぼうとするのでしょうか?
「記憶力」じゃない方の「力」なのか
よくあるケースはシンプルで、「社会科や英語の暗記はできるけど、現代文の成績が伸びないから」 という動機を持っている場合です。
これは「学力には記憶力と思考力の二種類がある。記憶力は暗記科目で試され、思考力は現代文や数学で試される。うちの子は暗記科目が得意であり、にもかかわらず思考力の科目が苦手のは思考力が欠如しているからだ」という、まずまず論理的な考えだといえるでしょう。
しかし、昨今の暗記中心教育批判の風潮の中で、「暗記力」に代わるものとしての「論理的思考力」がますます重要視されてきているわけで、肝心の中身は曖昧なまま、「なんか凄い万能の力」としての「論理的思考力」が神格化すぎていることは否めません。先ほど見た通り、国語の論理的思考力は「大富豪」における「ジョーカー」のような力ではありません。
暗記以外はすべて論理的思考という前提は疑う余地があるといえるでしょう。
他にも認知力や判断力、処理速度など、さまざまな力が学力を構成していると考えるのが自然です。
さらに疑うべき前提はもうひとつあります。
「現代文は思考力を試す科目である」というのが、実際教えている立場としてはイマイチです。
出題される文章はほとんどが片手で数えられるページ数以内のもので、普段何百ページもある本を読んでいる私としては極端に短いと言わざるを得ないですが、ほとんどの生徒は(難関大志望生であっても!)2ページ前に書かれていたことをすぐに思い出すことができません。
これは論理的思考力の問題ではなく、「記憶力」の下位区分である 「短期記憶力」の欠如の問題です。
これが備わっていなければ、そもそも論理的思考を行うための情報を留めておくことができません。
「暗記科目ができて現代文ができない」方は、論理的思考力以外にも、一時的に情報を脳に留めておく、ワーキングメモリを鍛えるべきであるという可能性をぜひ考慮に入れてください(授業ではそれもサポートしています)。
「直感力」じゃない方の「力」なのか
「論理的思考力」が「記憶力」の反対でないならば、それは「直感力」や「感情表現力」の反対といえるでしょうか。
よく「現代文はフィーリングで解いてはいけない」と言われますが、私はそうは思いません。
例えばすべてフィーリング、つまり直感に基づいて入試の国語を解いたとして、その答えが全て正解ならば、何の問題もなく合格することができる訳です。
問題は、その直感に基づいた答えが間違っている場合にのみ生じるに過ぎません。
少なくとも現行の試験形式では、頭の中を覗きみて、「論理的思考」があるかどうかをチェックすることは不可能ですから、ものすごく研ぎ澄まされた天啓の「直感力」さえあれば、テストをくぐりぬけることはできます。
ある機械が「知性」「人間性」を持っているかを判別する「チューリング・テスト」という思考実験があります。
試験官が目隠しをした状態で、機械と会話を行い、会話相手が「人間」だと判断すれば合格で、その機械は人間的に思考していると見做せるというものです。
他者から見て何となく「人間的」だと思われれば合格なので、昨今のchatGPTなどのAIは余裕で合格できるかもしれません。
現代文のテストも同じで、あるヒトの「思考力」を真に評価するテストを作ることは困難なのです。
また、どんな人でも、直感的に思いついたことを後から整理してみれば、それに論理的にも正しい理由付けができたという経験があるでしょう。偉大な科学者が理論を発見する際にも、そのような直感が先行していたケースはたくさんあります。
であるのに、直感と論理的思考を無理に切り分けて、前者を押し殺すようなトレーニングをするのは無意味です。学習の際には、まずは直感的に答えを導き、そのまま放置せずに後からその理由を考えるというように、両方の力を共存させることが重要でしょう。
「感情」を抑える「力」なのか
日常生活で、家族や友人・同僚に対して「論理的じゃないな」と感じるケースのほとんどは、その人が怒りや悲しみなどの「感情」を露わにしている時でしょう。
このとき、「論理的である」ということは、機械のように「冷静である」という程度の意味に成り下がります。
ただこういったケースでは、まずは感情を抑えるために瞑想などの自己制御手段(アンガーマネジメント)を勧めることが考えられ、「現代文を勉強しろ」ということにはならないのではないでしょうか?
また例えば、至って論理的に世の中や周囲の状況を整理し、そこに途轍もない不条理があることを発見し、怒りに震えるという経験も生きていればあるでしょう。論理的な思考の結果、感情的になるということもあり得るということです。論理的思考が感情を抑えるどころか、増強してしまう。
逆に、例えば「UFOを目撃した驚きを誰かに伝えたい」という場合、その目撃物が他の何かではないことを証明するための論理的説明が必要になります。こういったケースでは、驚きを共有したいという動機が大きいほど、論理的な思考力を働かせようという意志も強まることでしょう。
つまり、情動を多く経験している人ほど、論理的思考を働かせる経験も増すということがあり得るのではないか、と私は考えます。
「論理的思考力」を客観的に評価することが難しい以上、結局は、日常場面では、相手を納得させる「説得力」がどれだけあるかが問題になってしまいがちなので、そこには感情的な表現力もあわせて必要になります。
「論理的思考力」の鍛え方
好きなものを人にすすめる
現代文の学習以外で、日頃から「論理的思考力」を身に付けるためには、何か好きなものを極めていくことが大切でしょう。その「好きなもの」がなぜ良いのか、説得力をもって身近な人に伝えて、共感してもらうことも大切です。説得力を増すために必要なのが、客観的・論理的な思考力です。
必要に応じて身に付けた能力だけが本物です。
また、国語の成績につなげるためには、「無味乾燥でつまらない」評論文を読むよりも、まずは興味のある小説から手をつけるのがおすすめです。
優れた小説には必ず複数の「解釈」があり、十人十色の読み方があります。
しかし、それは「人それぞれ」で片付けてもつまらないので、それについて誰かと話し合い、1番適切な解釈を考えることも大事です。
なるべく原文を根拠に、自分の解釈がいかに独自で本質を見抜いているかを考え、それを他者に説明する。その過程で言語化力や論理的思考力を身に付けてしまえば、国語の試験なんて朝飯前です。
マーク式の問題を解く
受験生には、マーク式よりも記述式の国語試験を苦手とする人が多いですが、それは手間がかかり、言語化の質が問われているからでしょう。
しかし、論理的思考力の観点からは、実は記述式の方が簡単なのではないかと思います。
記述式問題の多くは、ある意味では、本文に書かれていることを言い換えて、要約することで解けてしまうものだからです。
これは今のレベルの人工知能であればごく簡単にできてしまいますね。ただ、その「言い換え・要約力」が欠けている受験生が苦悩をしているだけで、論理的思考は相対的には求められないでしょう。
マーク式の問題ではそれ以上の能力が求められます。
例えば5つの選択肢のうち、一つだけが正解の問題があるとします。
正解の選択肢について、「それがなぜ正解なのか」説明できる生徒はほとんどいません。「だって、本文にそう書いているから」という以上の説明は必要ないですからね。記述式と同様、論理的思考はそんなにいりません。
論理的思考力が必要なのは、間違いの選択肢が「なぜ間違っているか」を考えるときです。
これについて、できない生徒の多くは、「書いていないから」という不十分な説明しかできません。
つまり、こういう人は「言い換え力」しか持ち合わせていないため、理路整然と間違いの理由を説明できないのです。実際には、その説明にこそ、(詳細は省きますが)色々な論理を駆使することが求められているにもかかわらず。
間違いの選択肢には、書いていないというだけでなく、様々な誤謬が駆使されています。それを見抜くことに、論理的思考が有用なのです。
論理的思考は大きくいって2つの活用法があるのだと思います。
1つには、たとえば数学やプログラミングのように、なにか与えられた前提から「正しい」論理を組み合わせて答えを創り出していく 「創造的」な用い方。
もう1つは、間違っている主張について、その間違いを解明するための説明を組み立てる 「批判的」な用い方です。
どちらも実生活で非常に有用ではありますが、大学受験国語・現代文では、(小論文を除いては)前者のような能力を問われることはあまりありません。一方、後者の能力は、マーク式の問題で不正解の選択肢を「消去」する際の正確さとして、確率的に問われているということができるでしょう。
相手の間違いをズバズバ指摘する力が今の日本社会で求められているかはさておき。
まとめ
というわけで、今回は自分の中での思考の整理を目的に、だらだらと「非論理的」に書き連ねてしまいましたが、なにかの役に立てていただける人がいればと思います。
ではでは。
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