大学受験国語塾は必要か?→集団塾はいらない

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Google検索で「国語 塾」と調べると、「いらない」が予測候補に出てきます。多くの人がこの組み合わせで検索を行っているということです。

ところで、わざわざその言葉を調べてしまう人々の動機とはどのようなものなのでしょうか?本当に国語塾に必要性を感じていない人は、そもそもそんな語句で検索などしないはずです。

つまり、彼らの心の奥底には「実は国語塾に通わないと大学受験がうまくいかないんじゃないか」という不安があり、それを打ち消すべく証拠を探しているのです。(精神分析的には「否定」の防衛機制です。嫌いは好きの裏返し、に似ている)

とはいえ彼らの意見に半分は同意します。国語の「集団」塾に通う必要性はないどころか、後で解説する通り、場合によっては危険ですらあります。

ありふれた例えですが、大学受験国語を予備校や集団塾で教わっている人は、
「車が普及した社会で馬に乗って移動している人」 です。
志望大学合格という目標地点に、より速く、しかも低コストで辿り着けるオンライン個別指導がどこでも今すぐに受けられるのにもかかわらず、わざわざ困難な方法を選ぶ。
今回そんな不思議な人たちの生態を観察してみましょう。キーワードは「言語化」です。

大学受験国語塾に通う必要性はない

世代間で受け継がれる惰性的慣習

彼ら彼女らが国語塾や予備校に通ってしまう最大の要因は 「親の意向・情報不足」 です。
受験は情報戦であるということはある程度認知されていますが、お忙しい保護者の方が仕入れられる情報は限られているため、どうしても保護者の方が受験生だった時代の知識を子どもの受験にも適用してしまいます。
ところが今は過渡期であり、かつて馬が車に取って代わられたように、映像授業やオンライン個別指導が集団授業という古い慣習を淘汰してしまおうとしています。資本主義社会である以上必然的な淘汰圧です。
それに気づいた人が効率的に成績を上げられるのは当然ですよね。

オンライン個別指導は
・様々なコストが不要になるので予備校よりも安い
(場合によっては学生バイト講師よりも安くプロ講師の授業が受けられる)
・良い講師を選ぶコストもかからない
・最新テクノロジーを使用しているためアナログ授業より高品質
・対面による不要なノイズがなく、授業に集中できる
・1対多数の集団授業よりもオンラインマンツーマン指導の方がホスピタリティがある
などのメリットがあります。

唯一デメリットとしては、自習環境は自分で用意する必要があるということです。
ただそれは、
・自宅環境を快適にする(例えば背後に壁がくるように机をセットするなど)
・図書館、学校の自習室、その他自習ができるカフェや有料自習室など外部にアウトソーシングする
などで解消できます。

これらの情報を加味しても予備校や塾を選ぶ人は多くないでしょう。単に情報収集から目を逸らしているだけです。
大事なことは、勉強は子どもの責任であって、「情報戦は親の責任である」 ということです。特に都会よりも地方に住んでいる場合は、質の良い情報を入手できるかが決定的です。

合理的・論理的思考が身につかない

そもそも対面集団指導よりもオンライン個別指導の方が生徒の学びを最大化できるのに、
わざわざ対面集団授業を行なっている講師とはどういった人物なのでしょうか。

辛辣に言えば、「非合理的」で「非論理的」な人です。
非合理的で非論理的な講師に教わって、合理的思考や論理的思考が身につくのでしょうか?
答えは明白ですね。これがまず 「属人的」な、対面集団塾不要論の論点です。

1番大事な言語化力が身に付かない

次に構造的な集団授業の問題を説明します。

実際に大学受験国語を教えていて実感するのは、国語の成績が伸びない最大の原因として、「言語化力」が低いからというケースが多いことです。

記述試験は言わずもがな、マーク式試験でも最重要なのがこの「言語化力」です。

共通テストなどの選択肢形式の問題について、不正解の選択肢がなぜ「間違い」だと言えるかを聞いてみると、「本文に書いていないから」と答える生徒はほぼ間違いなく国語の成績が低いです。
実際にどう答えるべきかというと、

・「〇〇の論点が××の論点にずらされている」
・「△△という箇所に論理の飛躍がある」
・「本文の主張を逆にしてしまっている」

など、「書かれていない」ではなく、その選択肢が「どう書かれている」かを指摘し、間違いをパターン化すること。これが「言語化力」であり、国語の成績向上に、ひいては古文漢文、英語長文や英作文他の成績向上に欠かせない力なのです。

精神疾患のひとつに 「場面緘黙症」 というものがあります。例えば家庭内では普通に喋れても、会社や学校などの特定の場面でのみ途端に言葉が出てこなくなる、という症状です。
精神疾患を揶揄する意図はまったくありませんが、国語の問題を解くときにのみ、全く言葉がでてこなくなるという受験生が一定数いるように感じます。これは一体なぜなのか考えてみましょう。

集団授業は言語化力を退化させる

結論から述べると、集団授業という形式そのものが、言語化力を伸ばすどころか、退化させてしまう場合があるというふうに私は考えています。

高校生はそれまでの10年以上に及ぶ日本式学校教育において、勉強内容以上に、「黙って授業を聞くことが勉強である」ということを学習してしまっています。実際わたしは中学生も教えていますが、中学生くらいまではまだ国語場面緘黙症の方は少ない(いきいきと国語の文章について語ることができる)のに、高3、高卒生と学年が進むにつれて場面緘黙的傾向がどうしても増えてきます。

もちろん本人の性格、家庭友人関係など、他の要因もあるのでしょうが、長期間拘束される学校教育に本質的原因を見出すのは不自然ではないと思います。

以上のことから、私はオンライン国語個別講師としての仕事を、学校化された生徒の国語場面緘黙症を治癒することと定義し、実践しています。哲学者イヴァン・イリイチの言う「脱学校化(de-schooling)」の一環ですね。

そもそも「学び」は、自分から質問して答えを得たり、逆に教師から質問されて応答したりする、フィードバックのある環境でなければ難しいのです。

集団授業によって退化してしまった能力を、集団授業によって回復することは、果たして可能なのでしょうか。

これからのAI時代に必要な「言語化力」を身につけよう

言語化力は受験という短期的な目標達成のためにもかかせませんが、それ以上に将来的にも欠かせない能力です。
過渡期的時代をさらに複雑化させようとしているのが、翻訳AI(DeepL)や画像生成AI(stable diffusion)やchatGPTなどLLM (大規模言語モデル)型AIの登場です。

これらの技術によって、一瞬で翻訳をしたり、人の話す自然言語だけで絵を生成したり、アプリを作ったり、パワポ資料を作ったりなど、多くのことがすでに可能になっています。

ただそこには注意点があります。なるべく厳密で適切な指示を与えることでAIの出力がより良いものになるのです。そのため、AIに与える指示を工夫する「プロンプトエンジニア」という職業がすでに生まれています。

個人的な考えですが、このような時代においては、数学やプログラミング、また英語などの科目を学ぶことよりも、国語を学ぶこと、とりわけ「言語化力」を身につけること、それ以上に重要なことはなくなっていくのではないでしょうか?

そして集団授業、黙って授業を聞いていることはますます無価値になります。自分から話しかけない限り、今のAIは何もこたえてくれませんから。

まとめ

というわけで今回は大学受験国語のオンライン個別指導が必要な理由について考えてみました。
私の教える「飛ぶ教室」で学びたい方は当HPからお問合せをお待ちしております。

ではでは。

※アイキャッチ画像は、おそらくAIで生成されたフリー画像をお借りしました。本文はAIで生成していません。

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