「無謬性信仰」が大学受験国語の成績向上を妨げる

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「無謬性の原則」とは?

日本の政治家や官僚の行動原理を分析する際に、「無謬性の原則」という概念がしばしば持ち出される。
「無謬性」とは、「誤りが含まれていない」という意味である。
例えば何らかの政策を実行するにあたって、「それを担っている組織や各構成員が目的にそぐわない行動を取ったり、失敗をすることはない」という前提のもとで組織運営がなされることが、「無謬性の原則」である。あるいは、「そもそもその政策自体が目指している目標を達成できないはずはない」と、素朴に信じられていることも、「無謬性の原則」の一側面であるといえる。

だからこそ日本では、失敗の可能性について十分に議論されなかったり、一度決められた政策の方向を修正することが非常に困難になったり、政治家や官僚の不正に対して隠蔽や改竄が行われるということが日常茶飯事となってしまう。

もちろん、「無謬性の原則」がすなわち悪だと言い切ることはできない。全ての政策を吟味したり、役所の仕事を隅々まで疑ってかかっていては、日常生活を穏やかに過ごすことは困難になるだろうし、突き詰めれば、安心してコンビニでお弁当を買ったりすることすらできなくなってしまう。素朴な信頼こそが、社会を成り立たせているからだ。

とはいえ、「無謬性の原則」が行き過ぎたとき、それが「無謬性信仰」となってしまったとき、人々が思考停止に陥ってしまうという残念な悪影響が出現することを忘れてはいけない。

「無謬性の原則」が人々に植え付けられるのは、なんといっても学校教育においてである。
先生の言っていることが絶対に正しい。教科書に書いてあることが絶対に正しい。問題には必ず正解がある。
生徒たちはこうした考えを何年もかけて受け入れていかざるを得ない。いわゆる「暗記」偏重の教育が前提としているのが、この「無謬性」に対する信仰であると私は考える。そもそも教科書が疑わしいのであれば、それを暗記することに何の価値があるのだろうか。

そうはいっても、教科書や教師に対する信頼は特定の科目に関しては欠かせないことは明らかだ。
理系科目では、教科書には原則として正しいことしか書かれていない。いちいち円周率の値に関して疑っていては、数学の習得は困難になる。
歴史科目においても、(全員が教科書に書いてある歴史が真実だと信じている社会は危険であることはさておき、)基本的な事項はそのまま暗記してしまうのが一番効率的である。

ただ、とりわけ国語科目においては、こうした無謬性に対する信仰があだとなり、成績向上に関して実害を生んでしまうのである。
数学や理科と違って国語科目は、人間のために作られた人間の作品を、人間によって教わるのだから、あらゆる側面に誤りが含まれていることは当然なのだ。

大学入試国語では、「無謬性信仰」を捨て去るべき理由

大学入試国語において、多くの受験生が持っている「無謬性信仰」は以下の4つである。

  • 著者が無謬である
  • 出題者が無謬である
  • 小説の語り手が無謬である
  • 解説作成者が無謬である

「飛ぶ教室」で国語を指導するにあたっては、これらの思い込みがいかに危険か、ということを生徒に理解してもらうことが最優先事項となる。

著者が無謬である、という誤解

当たり前だが、現代文評論において出題される文章は、絶対に正しいことが書かれているわけではない。そこに書かれている主張は、どこまでいってもその著者の一意見にすぎない。提示されているデータが偏っていることだって少なくはない。
そんな当然に思えることであっても、受験生は意外と理解できていない。
一方で近年の共通テストでは、まさにこの「著者無謬性信仰」をついた出題がなされることがある
同じテーマについて別々の著者が書いた、意見の対立する二つの文章が提示されることによって、それぞれの文章の主張が絶対的なものではなく、相対的な意見にすぎないということを理解することが求められているのである。

このタイプの出題については、日頃から問題を解く際に、著者の主張に反した意見を自分で考えたりすることによって、疑いの視点を持てるようにすることが得点に直結するだろう。

出題者が無謬である、という誤解

大学入試国語では、人間が書いた文章を人間が解釈し、問題を作成しているのだから、その問題だって説明が不十分だったり、選択肢の中に正答が含まれていない、というミスが生じることがある。
だから時折、入試終了後に、「この問題は正答なし」と大学当局が発表する事件が起きる。
そうした事態を避けるために、4から5の選択肢の中から正答を選ぶ形式の問題では、免罪符として「最も適切な選択肢」を選べ、と指定されていることが増えている。
つまり、どの選択肢も完全に正しい訳ではないということだ。その中から一番マシな選択肢を選ぶためには、慎重な批判的思考が必要になってくる。

小説の語り手が無謬である、という誤解

一人称視点の小説においては、そこで書かれている出来事の描写はあくまで主人公の主観にすぎない。主人公が「今日はいい天気だ」と書いてあったとして、それはその日の天候が晴れだったということを必ずしも意味しない。書かれていることの裏を読むことも忘れてはいけないということ。
「私は嘘をつかない、誠実な人間だ」という人を信用してはいけないのと同じことである。

解説作成者が無謬である、という重大な誤解

「問題集の解説は不十分だったり、そもそも間違っていることがあまりにも多いから、参考にしてはいけない」ということを、私は生徒に対して口を酸っぱくして言う。それでもやはり、解説を鵜呑みにしてしまう生徒が後をたたない。

「飛ぶ教室」では、特に赤本やネット上に掲載されている入試問題を扱うことが多いのだが、残念なことに記述問題の解答についてはほとんど参考にならない。なので逆に、誤答例として赤本の解答を取り上げて、生徒に間違いを考えてもらう、という授業が成立することもあるほどだ。

解説が不十分なのは、実は構造的な問題なのである。
多くの受験生は、国語の読解法を特定の教師や参考書に教わることで、特定の観点から体系的に国語についての説明を受ける。ところが、その説明の体系はどうしても教師や参考書によって異なってしまうため、絶対に正しい読解法は存在しない。

ところがそうすると、問題集の解説作成者は、どんな観点から教わった受験生でも納得できるような解説を書かなければいけないので、客観的ではあるものの表面的な説明に終始せざるを得ないのである。
そうした説明では、本質的で理論的な理解を得られないのは当然だろう。

その上、問題集の解説を読んでわかったつもりになるのは、非常に危険な思考停止につながる。実際、入試本番では、どんな解説も見ることはできず、自分の頭で、手探りで答えを導き出すしかないのだから。
勉強が好きな人ほど、自分の答案が正答・模範解答と一致しているかをすぐに確認したがる。というのも、正解していたときに得られる喜びをすぐに求めるように脳の報酬系の回路が出来上がっているからだ。しかし肝心なのは、単に正解しているかどうかではなく、その正解を導いた手順を自分で意識化=言語化し、吟味して反省することなのである。

まとめ

「無謬性の原則」は、効率的に理系科目や歴史科目を学習する際には大いに役立つ。しかし、とりわけ国語においては、そのデメリットが表面化してしまう。
だから、特に「他の科目は得意だけど国語だけは苦手」といって「飛ぶ教室」の授業を受けにくる生徒を分析してみると、その原因に根強い「無謬性信仰」があることが多いのである。
そういった生徒は、解説を読んで理解したと言い張るけれど、少し聞いてみれば何も理解していないということになってしまう。

どうしても学校の国語教育は、この「無謬性の原則」に従った授業を行ってしまうので、マンツーマンの個別指導で批判的思考を培うのは確かに効果的であると感じる。
多くの受験生が、表面的にしか国語を理解していないからこそ、個別指導で本質的な「解き方」の理解を深めていくことで、雲泥の差をつけることができるのも、また世の理なのである。

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