「作者の気持ち」はどうでもよい
「作者の気持ち」はお引き取り
大学受験国語や現代文について、未だにクリシェ(決まり文句)として語り継がれていて、聞くたびにうんざりするのが「作者の気持ち」論である。
実際に国語の指導をしている人で、国語では「作者の気持ち」が問われると教えることはまずないだろう。
実際の試験で「作者の気持ち」が聞かれている問題を見たこともない。そのような主観的な問題は恐らく存在しない。
そうではなくて、むしろ、国語入試を解いたことがあるかすら怪しい人が、
「国語なんて作者の気持ちを聞かれるふわふわした科目でしょ。だから勉強したって意味ないよw」
とイメージで語っているのだから呆れるのだ。まあ、こういう無責任な言説に唆されて国語に真面目に取り組まない程度の受験生は、元から素質がない可能性が高いので、放っておけばいいのかもしれないが。
ここでは、馬鹿馬鹿しい「作者の気持ち」論に対する反論を仕方なく行なってから、大学受験国語でもっと重要な視点を考えていきたい。
「作者の気持ち」論者への反論
どうやら「国語の試験は作者の気持ちという捉えどころのないものが聞かれるから、出題者は主観的に問題を作っている」らしい。
国語「作者の気持ち」論者たちがしたり顔で提出するその根拠の筆頭が、
「入試に出題された本文の筆者が、実際に問題を解いてみると不正解だった」という、たまに話題になるニュースである。そしてさらに、その筆者たちが図にのって「国語入試は出鱈目だ」と騒ぎ出したりもするから目も当てられない。
論理的に考えてみれば、この出来事から推測されるべきことは
「文章を書く能力と国語入試問題を解く能力は別物である」という当然の事実か、
「その筆者が意図した内容を十分に伝わる形で言語化できていなかった」という残念な可能性のどちらかに過ぎない。
にもかかわらず、「作者の気持ち」論者たちはニヤニヤしながら、「ほら、だから国語入試なんて適当に作ってるでしょw」と安易な結論へ至ろうとする。
彼らは単に国語入試の解き方をわかっていないだけなので、ぜひ「飛ぶ教室」で教えてあげたいものだ。
より根深いと感じるのは、そうした一般人系「作者の気持ち」論者の存在ではなく、入試国語に出題される文章の筆者たち(多くはどこかの大学の文系教授だったりする)の一部が、素朴な「作者の気持ち」信仰に染まりきっていることなのである。最近では早稲田入試について、フーコー研究者で明治大学教授の筆者がいちゃもんをつけていた。
かりにも文学部や文系の学生であれば誰でも知っているはずの、記号論者ロラン・バルトの「作者の死」という主張は1967年のものだ。小説や詩などの文学に限らず、あらゆるテクストはその作者の人格や思惑から切り離されて、無数の引用からなる織物として読まれるべきだというその主張は、従来の作者重視の文学研究を転換させた。明治大学でフーコー研究をしている教授ですら、こうした基本的な知識を血肉化できていないから、作者として偉そうな顔をして入試問題にいちゃもんをつける失態を犯してしまうのである。
国語入試も同様であり、設問と正答の根拠となるのはあくまでテクストそのものから客観的に理解できるものであり、作者の思惑とは無関係なのである。
実際に近年の共通テスト国語では、バルトのテクスト論を踏まえたような問題が各大問の問6で出題されてきている。
例えば小説について、文中に出てきた「案山子と雀」を抜き出し、そのモチーフのセットが登場する俳句を関連づけて考察するといった、文化的引用を創造的に解釈していく問題が出てきたりする。
そこには小説作者の思惑どころか、面影すら見当たらない。
いじめや差別や犯罪を考える時には、やった側の「内面の気持ち」ではなく「行為」自体が問題なのと同じく、国語では「書かれていること」を丁寧に見るしかない。という、当たり前のことがなかなか理解されていないのかもしれない。
「出題者の気持ち」はやきもち?
卵の作り手は鶏さんであり、養鶏農家ではないのと同様、そもそも、「本文の筆者」は国語入試の「作者」ではない。あくまで「素材提供者」に過ぎない。
考えてみれば、本当の作者は 「出題者」さんなのである。
しかも出題者さんは、自由な解釈が許される文学作品の著者と違って、正答を一つに決めることで、自分の決めた読み方を受験生に押し付けることができる、絶対的な権力を持った「作者」 なのである。
であるならば、受験生が一番に忖度するべきなのは、その出題者様ではないだろうか?
「出題者の気持ち」を考えることで、国語入試の見え方は変わってくる。例えば、
- その傍線部はなぜ、そこにお引きになられたのでしょうか?
- その誤りの選択肢は、どういったお気持ちでお造りになられましたか?
- なぜこの文章を出題文としてお選びになられましたか?
- 「本文の趣旨を踏まえて」と設問にありますが、どの部分を踏まえたらお喜びになられますか?
こう考えながら問題に向き合う方が、よほど建設的であり、実用的であることは間違いない。
言われたことを何も考えずひたすらやることに特化した英才教育を受けてきた一部の受験生にとっては難しい作業だが、ぜひ取り組んでみてほしい。
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