誤解されがちな評論と随筆(エッセイ)の違いをプロオンライン家庭教師が解説。大学受験国語現代文の理解に欠かせません!

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「飛ぶ教室」東大卒プロオンライン家庭教師のけんです。
評論と随筆がどう違うか、考えずに解いている受験生が多いので、今日はその違いを解説していきます。

そんなことはどうでもいいと思っている人は、大変危険です。解いている問題の文章がどちらなのかによって、着眼点が全く違うので、そのポイントを読み落としてしまうと、実際に失点につながってしまうことが少なくないんですよね。

結論からいうと、評論文は最終的なゴールが抽象的で主観的な主張】であり、エッセイは具体的で客観的事柄】にあるということです。
今まで持っていたイメージとは逆ではないでしょうか?それでは解説していきます。

大学受験・国語の評論文の特徴

「客観的」という一般的なイメージの誤解

そもそも、オンラインで国語の授業をしているときに、生徒に「評論文とエッセイ、違いわかる?」と聞いてみると、少し迷ったあとでこんな答えが返ってきたのがこの記事を書くきっかけでした。

生徒A
生徒A

「えっと、評論は客観的な事実について書いていて、エッセイは主観的に意見を述べるものだと思います。」

確かに、この生徒の印象は多くの受験生と同じものだと思います。
しかし、これは実は真逆の捉え方だと思った方が、実際の問題を解くときには役立つんです。

評論文は、客観的な事実を取り上げるのは当然ですが、その目的について、なぜこのように事実を取り上げるかまで踏み込んでみましょう。

Aという事実があり、Bという事実があり、・・・と、具体的なデータを示しながら、最終的にはそのデータを解釈する抽象的な主張を導くのが、評論文でよく見かける形式です。

例えば、早稲田大学の過去問で、「雷が落ちてきたときに「桑原」と唱えるのはなぜか」についての文章が出題されていました。確かにその文章では、実際の地方の風習や、日本書紀の記述など様々な事例(事実)が紹介されています。

そして、その疑問の答えにいたるまでに、「雷と桑の木を結びつけるのは日本発祥の習慣である」という説や、「中国で鉄器が登場した時代に発生した俗信」だという説を検討し、いずれも不十分であるということを著者は示していきます。

最終的な著者の主張に至るまで、たくさんの文献や事例が紹介されていくのがこの文章の特徴なのでした。

この過去問を先ほどの生徒Aさんと一緒に解いたのですが、その際に、Aさんはそれぞれの細かい具体例をあまりにもじっくり読んで線を引いてしまっていて、逆に時々出てくる著者や他の説の抽象的な主張には線をあまり引いていませんでした。

Aさんはそのことが原因で、選択肢の問題でいくつも失点していたので、私が「評論とエッセイの違い」について聞いたところ、帰ってきた答えがさきほどのものだったんですね。

Aさんは評論文を、具体的で客観的な事実に注目して読んでしまっていたので、俯瞰的で抽象的な主張を読み落としてしまったんです。

ではどうすれば良いのかというと、いろいろな事実・データが引きあいに出されてくる評論文であっても、逆に抽象的な主張の部分をしっかり線を引いて把握していくこと。

そして、具体例の部分は完璧な理解を初読のときは目指さず、設問で必要になった時に読み返せるようにマークできていればいいんです。

接続詞にマークしている人は要注意!

現代文の先生や参考書でよく言われるのが、「接続詞をマークしなさい」というテクニックですが、実はこれも一長一短があるので注意してくださいね。

その理由ですが、一つには、【良い文章ほど接続詞が省略されている】からという点です。

実際に現文の問題をたくさん解いてみた人はわかると思いますが、読みやすい文章ほど、接続詞がなくても文章の流れがすらすらわかるように書かれているものです。

そういった文章では、接続詞は逆に冗長になってしまうので、なるべく使わないことが目指されているんです。

どんな文章でも接続詞に囚われて読んでいる人は、こういう文章に出会った途端、手がかりがなくなって手をこまねいてしまうんです。

もう一つの理由ですが、【接続詞は前後の段落の関係しか説明しない】からです。

「しかし」「つまり」「それゆえ」「ところで」など、いくつか例を出してみれば分かりますが、全て直前の段落との論理関係を示しているだけですよね。

逆に、文章全体の中で、その段落の役割を示す単語はほとんどありません。

ところが、現代文読解で一番重要なのは、まさに「問題提起」や「一般論」「反論」「まとめ」など、それぞれの段落が文章全体の中で、どういう位置付けかを把握することに他ならないんです。

接続詞を何も考えずマークしているだけの人は、この位置付けの理解ができない傾向があるため、ぜひ意識して改善してください。

それぞれの段落の上に、「問題提起」とか「結論」とか、全体における位置付けをメモする方がよっぽど役立ちます。

評論文で登場する「帰納」「演繹」「アブダクション」について。

少し話がそれたので、評論文とエッセイの比較に戻ります。

エッセイは主観的な主張で評論文は客観的な主張というイメージも実は誤解です。

少々難しい話になりますが、人間の思考方法には大きく分けて3つあります。

一つは、「帰納」。受験生で聞いたことがない人は焦ってくださいね。

例えば、「Aさんは死んだ、Bさんも死んだ、Cさんも死んだ…」という具体的な事実の積み重ねから、「人は死ぬものだ」という一般論の主張を導き出すような考え方が、「帰納」です。

帰納とよく対比されるのが、「演繹(エンエキ)」です。
「人は死ぬものだ」という抽象的な前提から、「だからAさんも、Bさんも、Cさんも死ぬ」と、具体的な事象にそのルールを当てはめていく考え方ですね。

この帰納と演繹にくらべて、なぜか広く知られていない3つ目の思考法(厳密には「推論形式」と言います)が、「アブダクション」です。
そしてこれこそが、現代文の評論でよくみられる形式です。

どういったものか、先ほどの早稲田過去問の例で考えましょう。

著者は、「くわばら」の起源について、いろいろな事例をあげ、また他の説に反論しながら自分の主張を修正していきました。

最初は、「日本発祥の習わしである」という説について、「いやいや、中国の文献にも同じような伝承があるよ」と、他の事実で反論。

「中国の鉄器信仰と関係がある」という説も、「鉄器が登場しない、桑と雷だけが関連した言い伝えが多数ある」という事実で反論。

最終的には著者は、「中国での、背が高くて雷の落ちやすい桑の木に対する「世界樹」的な信仰が原因ではないか」という主張に至ります。

これが「アブダクション」のいい例です。「アブダクション」とは、観察可能な事実から、直接は導けない=観察不可能なものの、そうとしか考えられない仮説を導き出す思考法なんです。

「桑の木への世界樹的な信仰が古代中国にあった」か否かは、証拠がないので事実とは言えません。が、いろいろな事実を考えてみると、その説が一番しっくりくると著者は考えたわけです。

これは先ほどの「帰納」にも似ていますが、「帰納」は「人が死んだ」という観察から「人は死ぬ」という一般論を導く、観察可能な主張を導くだけでシンプルですよね。

「帰納」よりも発展的な、観察不可能な仮説を立てるのが「アブダクション」です。

評論文は主観的!

この「アブダクション」って、実は主観的なんですよね。
なぜなら、自分が知っている事実しか使わないですし、最終的な仮説は、検証できない=客観的ではないですからね。

そして、評論文は、この「アブダクション」的な思考が大半ですから、評論文の主張は「主観的」だと言っていいかもしれません。

なお、「主観的」の意味を、「感情論・印象で捉えてしまうこと」だと思っている人が多いですが、間違いです。
主観的」というのは、「自分が見える範囲の情報から何かを判断すること」です。

意外だったかもしれませんが、著者の意見を絶対的で客観的なものと思わず、常に主観的な主張と認識しておくことで、俯瞰的に現代文を読むことができるようになるので、やってみてください。

大学受験・国語の随筆・エッセイの特徴

エッセイの著者は誰?

評論文についての誤解はすこし解けたと思いますが、その誤解の原因は何か考えましょう。

先程述べたとおり、評論文の主張はどこまでも主観的なものなのですが、筆者はそれをあたかも「客観的」なものと装って、納得してもらえるようにしているんです。

出題文の著者を調べるとわかりますが、評論の著者はほぼほぼ大学教授です。
大学教授が常に主観的な意見を述べていると思われてしまうと、仕事に説得力がでないんですよね。

だから精一杯自分の主張が客観的だと思わせる努力をしているんです。

一方で、エッセイとして出題される文章の著者を調べてみると、大半が例えば翻訳家、音楽家や写真家など、本業が大学でのアカデミックな研究ではない人です。

こういう人々が、自分の豊富な経験に基づいて得た知見を語るのがエッセイです。
なのでエッセイの作者は、自分の考えが極めて個人的で、主観的だということを十分認識しています。

それ故、自分の主張が脆いものだと、真摯に考えていて、客観的だとは装わず、控えめに意見を述べるスタイルが多いのです。

エッセイは客観的!

自分の意見を過信しないエッセイの著者は、その裏返しですが、物事に対する観察を丁寧に行います

つまり、抽象的な主張が主眼なのではなくて、物事の具体的なあり方をしっかりと捉えようとするわけです。そう。エッセイでは具体的な事例の本質を詳しく捉えることがゴールなわけです。

また、ゴールが評論文とは異なっているので、「問題提起」「具体例分析」「主張」という順序にとらわれる必要はありません。

エッセイという形式を確立した16世紀フランスのモンテーニュ『エセー』でも徹底した人間観察が主題であり、自由に記述する書き方が目指されました。

日本を例にとってみると、「春は桜」という世俗的なイメージを、本質的な観察から「春はあけぼの」に覆した清少納言がいます。

「春はあけぼの」は主観的ではないか、という反論があるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか?

枕草子を読んで、「確かに春は明け方が素晴らしい」と思った人が沢山いたから、清少納言の文章は現代まで読みつがれて教科書にのるほどになったわけですよね。

つまり、優れたエッセイで描かれた観察は、多くの人の感性と一致しているという意味で、実は客観的な側面があるんです。

まとめ 評論とエッセイの違い

評論文での、観察不可能な主張をする「アブダクション」と違って、エッセイでは観察可能な考察が主になります。

ということは、そこで挙げられている具体例についての記述のほうが、主張よりも重要なわけです。

なので評論文は、著者の抽象的主張に線を引くべきですが、エッセイでは具体的な事例の細かい部分に線を引いて、著者独自の見え方をおさえることが肝要。着眼点が正反対なんですね。

このことを認識して、問題を解いていくことで、理解度がどんどん深まっていくと思いますので、是非試してみてください。

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ではでは。

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