論理国語は非論理的で、文学国語は論理的:国語の学習指導要領再編に思うこと

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2022年からの国語の新学習指導要領

国語の学習指導要領が今年2022年4月から新しくなりましたね。(https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20220109-OYT1T50139/)
実用的な文章は「現代の国語」に、古典や文学は「言語文化」に再編されました。

一方、小説を「現代の国語」に無理やり含めた第一学習社の教科書が、高校一年生の中で約17%の採用率になったとのこと。この数字が多いとは思えませんが、踏みとどまっている出版社があるというのは良いことだと思います。

来年2023年度には、2、3年生の選択科目も変わります。
現代文で言えば、受験に有利な2つの選択科目を取ろうとすると、「論理国語」・ 「古典探究」を選ばざるを得ない高校生が増えて、「文学国語」は取りづらくなるとのこと。

こちらの再編でも、出版2社が「論理国語」に小説を含めているようです。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220329/k10013557451000.html)

新要領の問題の本質

こうした再編の動きに反発する声の多くは、「高校生にも文学を読んでほしい」というものでしょう。確かにそうなのですが、もっと本質的な2つの見地からこの問題を考えてみたいところです。

なぜ教科は分割されるのか?

昨今、学校に行かなくてもいいという主張がちらほら聞こえてきます。とはいえ、現状は学校に通った方が有利になる社会ですから、今すぐ学校に行くのをやめた方がいいとはもちろん思いません。でも学校がそもそも何をしているのかは考えた方が良いことだとも思います。

私は『脱学校の社会』を著したイヴァン・イリイチという文明批評家やその弟子山本哲士に影響を受けていますが、彼らに言わせれば、学校機関は生徒たちに勉強を通して力を与えるように見せながら、実際は創造的に考える力を奪っているという面があります。英語を6年間学んでも一向に話せない人が多いという例がわかりやすいと思います。

そもそも英語や国語、数学、歴史、理科といった分野は相互に結びついていて切り離せないものですが、多くの学校はそれをあえて切り分けて、あたかも全く関係のないものとして教えていますよね。その方が教えやすいからでしょうが、本来は何らかの知りたい事柄について、これらの知識を総動員していくような形の方が学びは深まるはずです。

各科目の教師が毎日出勤したいという理由で、学校で1日に、(まるで新聞記事のように)国語・数学・英語・歴史をバラバラに教えられると、人によっては集中力が奪われてしまうというのは教えていて実感します。

生徒の独学スケジュールを立てる手伝いをしてみると、1日のうちに3科目4科目と内容を切り替えないと勉強ができないという人は意外なほど多いです。短期間で成績が伸びる人は、まとまった期間1科目をやり続けられる傾向があります。

今回の学習指導要領の再編は、現代文という科目を、さらに「論理国語」と「文学国語」に切り分けて、両者は無関係であると生徒に思い込ませようとしているかのようです。

あたかも「文学国語」が「非論理国語」であるかのような分け方ですよね。

論理国語は非論理的、文学国語は論理的?

この分け方に反論するために、今年の共通テスト国語の問題を取り上げましょう。

詳細は上の2つの動画で考えましたが、まとめると以下のようになります。

第1問「論理的な文章」は、文学的な題材についてのエッセイだが、題材を正確に読めていなかったり、「同語反復」などの論理的な間違いがたくさんあり、直観的な感想でしかない。設問も、「最も適切な答え」を選ばせるという形式で、全て間違っているものの中からマシなものを選ばせている。

第2問「文学的な文章」は、プロの小説家の短編を取り上げていて、きちんと読解すればそれが「アイデンティティ」という社会的なテーマを扱っていて、現代社会的な問題が伝わるように、登場人物や場面、語り方などの要素が「論理的」に配置されている。設問は、そういった本質的な問題を見ずに、物語の表面的な展開しか扱っていない。

こういった指摘をしている方が探しても見当たらないのが、私としては衝撃的です。多数が受験する共通テストがこのクオリティでは国語の将来は危ういですね。

このテストでは少なくとも、「論理的」と題された文章が非論理的であり、「文学的」と題された文章が論理的に作られていることがわかります。このような事態が起きるのにも関わらず、「論理国語」と「文学国語」という分割の仕方をしていいものでしょうか?

まとめ

ここまでは、学習指導要領の再編問題を考えました。元も子もないようですが、一度決まった制度は簡単には変わらないので、私が文科省や学校に期待することはありません。

ではなぜこのような話をするかというと、私が受験生のとき、東大の記述試験は高得点を取れたのですが、センター試験は国語だけものすごく出来が悪かったからです。

当時は私も評論が「論理的」、文学が「非論理的」だと信じていたものですから、問題を冷静に見れていなかったのかもしれません。「批判的」な態度が足りていなかったのです。

受験は受験で、それ以上でも以下でもなく、点数が取れれば結果オーライです。点数を取るためには、問題を冷静に見て、間違った論理もきちんと見分けられるようにならないといけません。

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ではでは。

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